ビットコインの歴史

ビットコインの歴史(1):誕生〜マウントゴックス破綻

ビットコインの歴史(1):誕生〜マウントゴックス破綻

ビットコインがこの世に誕生してから約16年。2008年10月にホワイトペーパーが公開されてから、2014年2月にマウントゴックスが破綻するまでの出来事を振り返ります。

ホワイトペーパー発表

2008年10月31日、サトシ・ナカモト(Satoshi Nakamoto)を名乗る謎の人物が、暗号技術に関する話題を扱うメーリングリストに「Bitcoin: A Peer-to-Peer Electronic Cash System」(日本語訳)と題したホワイトペーパー(論文)を投稿しました。

このわずか9ページのホワイトペーパーは、通貨制度の新しい時代を切り開く可能性を秘めていましたが、メーリングリスト購読者の大半は懐疑的でした。ビットコインが発表される以前にも、暗号技術を利用したデジタル通貨が提案されたことは何回もありましたが、成功したと言える事例は皆無だったからです。

それまで提案された方法は、ネットワーク上に特権を持った管理者が不可欠でした。つまり、管理者が不正に加担せず、通貨価値を毀損するような政策を取らず、システムの管理を恒久的に続けてくれると信用する必要があったのです。これでは円やドルのような法定通貨と何も変わらず、むしろ政府が管理している方が信用できるということになってしまいます。

実際には、ビットコインは従来の手法が抱えていた課題を解決し、管理者なしで完全に動作する仕組みになっていましたが、それが理解されるのには時間がかかりました。これまで幾多の失敗を見てきたメーリングリスト購読者たちは、分散型のデジタル通貨を作ることは不可能だと諦めていて、何の実績もない謎の男が言うことなど信じられなかったのしょう。

それでも、ハル・フィニー(Hal Finney)というコンピューター科学者は、ビットコインに興味を示しました。暗号技術による社会変革を目指す運動「サイファーパンク」の活動家でもあるフィニーは、2004年に「Reusable Proof-of-Work」というデジタル通貨のアイデアを発表しています。サトシはフィニーとメールのやり取りを繰り返し、ビットコインの実装を進めていきました。

ジェネシスブロック

ホワイトペーパーの発表から約2カ月後の2009年1月3日、サトシ・ナカモトはビットコインのブロックチェーンを稼働させ、自らジェネシスブロック(ブロックチェーンにおける最初のブロック)をマイニングすることで、最初の50BTCを入手します。ジェネシスブロックには、英紙タイムズ(The Times)の見出しを引用したメッセージが埋め込まれていました。

The Times 03/Jan/2009 Chancellor on brink of second bailout for banks

(タイムズ 2009年1月3日 財務大臣は銀行に対して2度目の救済措置を取る瀬戸際にある)

サトシがこのメッセージの意味を語ることはありませんでした。もっとも、リーマンショックの渦中にあった当時、各国政府が金融危機に苦しむ一般市民を差し置き、危機を生み出した金融機関を救済することを暗に批判したと解釈されています。また、ジェネシスブロックが1月3日にマイニングされたことを証明するために、その日付の新聞を引用したという指摘もあります。

1月8日、サトシはクライアントソフトウェアを一般に公開し、誰でもビットコインを利用できるようになりました。ソフトウェアが公開されると、ハル・フィニーはすぐに自分のパソコンで動かし、Twitter(現X)に「Running bitcoin」という伝説のツイートを投稿します。12日には初めてビットコインの送金が行われ、サトシからフィニーへ10BTCが送られました。

ビットコインの誕生に、ハル・フィニーの存在は不可欠だったと言えるでしょう。しかし、ビットコインが大きな問題なく動作したこととは対照的に、フィニーの体には様々な異常が現れはじめました。筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断された後も、病状が悪化する中でビットコインへの貢献を続けていましたが、2014年8月に58歳でこの世を去ることになりました。

最初の取引所

現在、ビットコインを入手する最も一般的な方法は「仮想通貨の取引所で買う」ことでしょう。ところが、ビットコインが誕生した当初は違いました。円やドルのような法定通貨と交換できる取引所は存在せず、入手するにはマイニングしかなかったのです。そして、売買できる市場がないということは、ビットコインの市場価格がゼロだったことを意味します。

2009年10月、世界初となるビットコインの取引所New Liberty Standard(ニュー・リバティー・スタンダード)が誕生します。それまでビットコインには市場価格が存在しなかったため、マイニングにかかる電気料金を基に価格を決める方法が生み出されました。ビットコインの最初の価格は1ドル=1309.03BTCで、1BTCはわずか0.00076ドル(約0.07円)です。

取引所の誕生によって、ビットコインに初めて価格が付きました。そして、法定通貨での売買が容易になったことは、ビットコインの普及にも不可欠な要素でした。誕生直後は数えるほどしかいなかったユーザーも、ネットの掲示板などを通じて少しずつ広まり、IT系のニュースサイトで取り上げられる機会も増えていきました。

世界初の取引所として、New Liberty Standardが果たした役割は大きいでしょう。しかし、使い勝手の点で優れているとは言い難いもので、ライバルの取引所が現れると短期間で姿を消すこととなりました。そして、New Liberty Standardに代わって覇権を握り、2014年2月の破綻(詳細は後述)まで世界最大の取引所として君臨したのが、あのマウントゴックス(Mt.Gox)です。

ビットコインピザデー

2010年5月、ビットコインに興味を持ったソフトウェア技術者のラズロ・ハニエツ(Laszlo Hanyecz)は、GPU(Graphics Processing Unit)を使うことでマイニングの効率が飛躍的に高まることを発見します。ハニエツは安価に大量のビットコインを入手することに成功した一方、GPUマイニングがビットコインの価値が毀損することを懸念していました。

そこで、ビットコインを使って買い物をすることで、それが支払いの手段としても使えることを示そうと考えたのです。もちろん、ビットコインでの支払いを受け付ける店舗など、2010年当時はまだ存在しません。そのため、自分の代わりに宅配ピザを注文してくれた人に対して、代金相当のビットコインを支払うという方法を取りました。

ハニエツはビットコインの掲示板BitcoinTalkに「Pizza for bitcoins?」というスレッドを立て、1万BTCでピザを購入したいと投稿。2010年5月22日、この申し出を受けたいというユーザーが現れ、41ドル相当の2枚のピザがハニエツの家に届けられました。

ハニエツはその後も同様の取引を繰り返し、合計7万BTCをピザに費やしました。ビットコインが初めて支払いに使われた5月22日はビットコインピザデーと呼ばれ、毎年5月22日にはピザを食べるイベントが世界各地で開催されるようになっています。

サトシ・ナカモトの失踪

2011年、ビットコインの存在はまだ広く知られていなかったものの、ソフトウェア開発者や技術者を中心としたコミュニティは拡大していました。開発や普及活動はコミュニティが主体で取り組むようになり、サトシ・ナカモトの出番は少なくなっていったのです。そして2011年4月、サトシは「他にやることができた」というメッセージを最後に消息を断ち、再び姿を現すことはありませんでした。

絶大な影響力を持つ発明者がいなくなったことで、コミュニティは精神的支柱を失いました。しかし、ビットコインの目的は分散型の通貨を作ることであり、特定の人物が主導することとは相容れません。サトシ・ナカモトがいなくなったことで、ビットコインは初めて分散化されました。現在では「サトシの最大の功績は、ビットコインを発明したことではなく、行方をくらましたことだ」と言われるほどです。

サトシ・ナカモトが何者なのか、現在に至るまでその正体は謎のままです。ビットコイン以前からデジタル通貨の研究に関わっていたアダム・バック(Adam Back)やニック・サボ(Nick Szabo)、ビットコイン開発者のピーター・トッド(Peter Todd)、そして前述のハル・フィニーがサトシだとする説などが存在しますが、いずれにおいても憶測の域を出ないものです。

最初のバブル

ビットコインは、現在に至るまで4回の大きなバブルを経験していますが、最初のバブルは2011年に起きています。きっかけは2011年4月、アメリカの雑誌TIME(タイム)がビットコインの特集記事を掲載したことです。大手メディアが初めてビットコインを取り上げたことで、1ドル未満だった価格は30ドル以上に急騰します。

もっとも、このバブルは短期間で崩壊しました。2011年6月、マウントゴックスがハッキングを受けたことは伝わると、価格は約2ドルまで急落。なお、マウントゴックスは2014年に別のハッキングで破綻することになりますが、この時は事業運営が継続できなくなるほどの被害はなく、世界最大の取引所として地位を維持しました。

最初のバブルが崩壊した後も、ビットコインの上昇は止まりませんでした。2011年の終わりには5ドル、最初の半減期を迎えた2012年11月には12ドルまで回復すると、2013年2月には34ドルで史上最高値を更新します。それでも、当時はビットコインを知る人は少数派で、一部のマニアたちの間で使われているに過ぎなかったのです。

キプロスショックとシルクロード閉鎖

ビットコインが世間に注目されるようになったきっかけは、2013年3月にヨーロッパの島国キプロスで起こった金融危機「キプロスショック」です。財政危機に陥っていたキプロスは、EUから経済支援を受ける条件として、大規模な預金封鎖が実施。この事件によって、ビットコインの誰にも停止できないという特長が評価され、価格は一時260ドル程度まで急騰しました。

2013年10月には、ビットコインが注目されるもう1つの事件がありました。違法薬物の売買などに使われていた闇サイト「シルクロード」の創設者ロス・ウルブリヒト(Ross Ulbricht)が逮捕され、サイトが閉鎖に追い込まれたのです。シルクロードでは、代金の支払いにビットコインが使われていました。この事件で価格は一時的に急落したものの、1週間程度でV字回復します。

シルクロード事件は、ビットコインが犯罪に多用されているという誤った認識が広がるきっかけとなりました。しかし、全世界で事件が大々的に報じられたことで、好奇心からビットコインを購入する人が増えたのかもしれません。程なくして市場はバブルの狂乱に突入し、2013年の初めに20ドル程度だった価格は、11月には1,156ドル(約11万5000円)まで暴騰します。

ビットコインと同じく、アルトコインの相場もバブルになりました。例えば、時価総額が2位だったライトコイン(Litecoin)は、2013年6月には3ドル前後でしたが、11月には45ドルまで急騰しています。ただし、当時はビットコインですら保有者は多くなく、アルトコインの保有者はさらに少数であったことから、アルトコインの高騰はあまり注目されませんでした。

マウントゴックスの破綻

こうした状況の中で存在感を高めたのが、世界最大のビットコイン取引所だったマウントゴックスです。同社はもともとトレーディングカードを売買するためのサービスでしたが、2010年にビットコイン取引所へと事業を転換すると、一時は取引量で世界シェアの7割を占めるまでに成長を遂げました。

マウントゴックスは、2011年6月のハッキング被害(前述)に加え、2013年4月には予告なく取引を一時停止するなど、管理体制やセキュリティに大きな懸念を抱えていました。しかし、当時は仮想通貨取引所に対する法的規制はなく、上場企業やその子会社が運営する取引所などは皆無だったため、取引量や利便性で勝るマウントゴックスはユーザーを引き付けたのです。

しかし、マウントゴックスの栄光は続きませんでした。2014年2月、ユーザーによるビットコインの引き出しを突然停止すると、外部からのハッキングで約85万BTC(当時の価格で約480億円)が盗まれたと発表して経営破綻。その後、同社のCEOだったマルク・カルプレスが会社の口座残高を改竄していたことも発覚し、私電磁的記録不正作出・同供用の罪で有罪判決を受けました。

当時、ビットコインの仕組みを解説する書籍やウェブサイトは乏しく、日本語で得られる情報はさらに限られていました。もちろん、マスコミもビットコインの成り立ちをほとんど理解しておらず、ビットコインとマウントゴックスを同一視したり、マウントゴックスがビットコインを管理していたかのような論調で事件が報道されました。

マウントゴックスの破綻によって、2013年のバブルは完全に崩壊します。多くの人が、ビットコインは「危険」「胡散臭い」と考えるようになり、シルクロードで違法な取引に使われていたことも相まって、ビットコインのイメージは急速に悪化。2014年は1年を通じて価格は右肩下がりとなり、2015年1月には171ドルまで落ち込むことになりました。

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